Essay Ⅲ

例外状態としての絵画


布施琳太郎


 これは「絵画を見るとき、自分のなかにあった問いが消える」という効用についての文章である。まず問いが「問い」として成立するためには、それが文法的に正しい必要がある。文法的に破綻した文章は、なにかの表現になるとしても、問いではない。「神はいるのか」「正義とは何か」「美味しい珈琲はどうやって淹れるのか」。これらは問いである。しかしたとえば「美はビに淹れて火、be、指を、違うのか?夕日」は問いではない。だけど絵画は、問いにならないものを、それでも思考されうるものとして画面に引き受ける。そこでは、答えを探す主体そのものが、いったん画面の前でほどかれてしまう。


 問いではないこと、文法的に正しくないこと。それこそが絵画であるなら——もちろん問いや応答としての絵画もあるが、それは宗教的あるいはコンセプチュアルなオーダーにもとづいている——絵画とは、例外状態を表現する可能性である。例外状態(Ausnahmezustand)とは「あらゆる法秩序が一時停止され、主権者が「誰を生かし、殺すか」を決定できる状況」(カール・シュミット)であり、強制収容所や現在のガザ地区などが当てはまる。ここでいう法秩序とは、政治制度だけでなく、問いを成立させる文法や、絵画を読み解くための分類の秩序でもある。その上で私は絵画を、現代美術という名の世界史の、例外状態を実践する場として捉えている。それは政治的惨事の比喩ではなく、意味の秩序が停止する形式の問題である。歴史的・同時代的課題への応答ではない表現の場として、絵画は重要であり危険である。


 石山未来の絵画は、大胆なストローク、ハレーションを惹き起こす色彩、他の色彩に侵入するようなにじみ、飛沫などの絵画的な現象によって構成されている。それらは相互作用しながら、顔や手、木、杖、羽などのモチーフへと変化していく。鑑賞者は、絵画的現象がモチーフへと転じ、またモチーフが絵画的現象へと戻っていくプロセス=絵画制作の時間を追いかけることになる。このプロセスは問いではなく、文法的に破綻した思考の地平を示す。あらゆる法秩序の一時停止へと鑑賞者を導く。一方で例えばミリアム・カーンのような絵画は、人類史における実際の例外状態を描き出すが、その画面では、ストロークは手や身体へと収束していく。それは例外状態の告発なのだ。


 カーンに対して、石山の絵画は告発的ではないし、とてもフラットである。このフラットさのなかで、あらゆる絵画内存在が文法から逸脱した景色に至る。作家の身体動作とモチーフの主従関係もなく、あらゆるものがあらゆるものへと変化しようとし合う。ストロークが顔に、手がにじみに変化しようとする。結果として画面のなかから奥行きが消える。奥行きの代わりに「何かが何かに変化しようとする」という予感だけが前のめりにひしめきあう。それらは何かを象徴するというより、名づけられる直前の状態で画面に浮上する。


文法的に正しくない思考=絵画。そこでは人は死なず、生まれもしない。ただ何かが何かへ変化しようとする。石山の作品は、例外状態を体現する。そうして法則の、法律の、文法の、例外的な主権者としての画家が社会のなかに現れるのだ。