Essay Ⅱ
とろける願い
多田恋一朗(画家)
そこに何が描かれているのか、具体的なモチーフを読み取ることは難しいが、明らかに何か(人のような、木のような、雲のような)が存在している、石山の絵は極めて抽象的だが、制作の態度は一貫して具象的に見える。
特殊な筆(絵の具で固まった筆や風呂掃除用のブラシなど)を使うことで生じる獣の爪痕のような筆致や、大量の油と重力によって生じる絵の具の垂れ跡など、強固なマチエール感は石山の絵の特徴の一つであり、そこには白髪一雄やモーリス・ルイスの絵の具捌きと似たような、空間を度外視するような豪快さも見受けられるが、石山の表現はそのような瞬間的な情動の発露に終始することなく、日を跨ぎながら丁寧に絵の具が重ねられ、明度も細かく刻まれているため、モナリザ的な実存性(何十もの絵具層で浮かび上がるような)が少し漂っていたりもする。
戦後から多くの画家が空間感よりも批評性(モチーフや技法の意味性)を意識するようになったからか、はたまた1〜2日描きの受験絵画の悪影響か、量産性を求める市場の事情か、SNS上で映えるか否かのカメラ的な問題か、とにかく現代絵画というものは印象派以前の絵画と比べて明度幅が狭く、空間性に乏しい。
一見して白く見えるシャツも目の前の牛乳に比べたら微かに鈍く、その牛乳もコップの淵に映る光に比べたら微かに鈍い。アンミカの言説すら生ぬるく感じるほどに、この世界の明度は無限的である。
そういう現実世界の秩序に背を向けず、現実の延長線上で絵画空間を観察し、丁寧に明度幅を刻んでいるからこそ、石山の絵はどれだけ抽象的に溶けたところで、車窓から覗く山々のようにスーッと抜けて見える。
似たような観点で私はヒルマ・アフ・クリントや辰野登恵子も高く評価しているが、彼女らと石山の違いについて一つ語るのであれば、やはり絵の具の話になる。
空間を実存的に描くためには明度を正しく(細かく)捉える必要がある_という絵画の命題に置いて、光を受ける量が普通の絵の具とは異なる、蛍光色や金属顔料は敬遠されがちだ。
背景全体を観念的な空間として考える、金屏風やクリムトのような表現であれば空間の秩序を保つことは容易い(背景が暗く見える時はキャラクターは全光状態のように見え、背景が明るく見える時はキャラクターは逆光状態のように見える)が、石山はかなり無秩序的に蛍光色を乗せているため、絵画空間内の光(時間)の流れがクリムトの比にならないレベルで支離滅裂になっている。
にも関わらず空間が破綻して見えないのは、無いものを或るように描く_という動機がそもそも破綻しているからだろうか、別々の時間軸を持った『何か』達が共存している石山のイメージは、異なる特性を持った者達が手を繫ぐ[ありもしないユートピア]そのものを映しているようにも見える。
蛍光色によって空間から弾かれながらも、それでも多層的な世界を信じようとする石山の描画行為は、それ自体が自身の愛や正義を疑いながらも肯定していくためにある、独自の信仰方法なのかもしれない。