ESSAY Ⅰ
絵画という音楽
三宅敦大(キュラトリアル・コレクティブHB 共同代表)
最初に石山未来の絵画を見たのは、スマートフォンの画面上だった。絵画は単なるイメージではなく物質であり、その価値は画面越しに十分判断できるものではない。それでもその画像は、作品そのものが持つ特異な存在感を予感させるには十分だった。
石山は、小説を読み、インターネットでマイナーな音楽を聴き漁るなかで感性を育んできた。そうした彼女が、表現方法として絵画を選んだことは興味深い。文学や音楽が意味を伝えるだけではなく、人の内面へ直接働きかけるように、石山もまた絵画を、知覚そのものへ働きかける表現として捉えているように思う。
だからこそ、私にとって石山の絵画は音楽に近い。それは意味や物語を理解する以前に、まず身体や知覚へ働きかけるからである。
その働きかけを支えているのが、石山独自の絵画空間である。彼女の作品には独特の質感と量感がある。とりわけ2022年頃以降、その特徴はより明確になった。以前はモチーフや色面、絵具の物質性によって成立していた空間性や量感が、近年ではより抽象的な構成のなかから立ち上がってくる。幾重にも重ねられた色彩のレイヤーや、掃除用モップによって生み出される柔らかさと激しさを併せ持つ質感は、画面を単なる平面ではなく、一つの空間として感じさせる。作品が何かを表象する以前に、私たちの知覚へ直接働きかけてくるのである。
石山は自身のステートメントで、「確信や実感は実体のないもので、相手とわたしをつなげるのにはあまりにも弱い。しかしこれがどんなに尊くて大事なものか」と述べている(『美術手帖』掲載の石山未来によるステートメントより)。この言葉が示しているように、彼女が描こうとしているのは、目に見える対象ではなく、「実体はないが、確かに感じられるもの」である。
しかし、その実感は言葉やイメージだけでは他者と共有できない。だからこそ石山は、自らの実感を説明するのではなく、鑑賞者の知覚のなかに新たな実感が立ち上がる経験そのものを生み出そうとする。言葉では届かないものだからこそ、知覚へ直接働きかける方法が必要になる。そのための重要な試みの一つが、「絵画の中にしか存在しない光」を探究することなのだ。
それは自然の光を再現したり、現実には存在しない色彩を生み出したりすることではない。絵画そのものが光を帯び、一つの主体として鑑賞者へ働きかけることである。その光は知覚を揺さぶり、鑑賞者の内側で実感を呼び起こす契機となる。
だからこそ、私が「石山の絵画は音楽に近い」と述べるのは、音楽のリズムやメロディを絵画へ置き換えているからではない。重要なのは、音楽が意味や説明を介さずに身体を震わせ、感情や記憶を呼び起こすように、石山の絵画もまた、視覚を通して知覚を揺さぶり、実感そのものを喚起しようとしているということだ。そこでは絵画は、見るものではなく、私たちへ触れてくる存在となる。
この展覧会では、ぜひ石山の絵画とゆっくり向き合ってほしい。画面のなかに広がる空間を、絵画が宿す重さを、そしてその光によって、あなたの知覚が静かに開かれていく瞬間を味わってほしい。
あなたの眼を、それらを感じる心の耳と信じて。